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*ウイリアム [#r3e5e2f2]
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CV:ベン・ピール  
*人物概要 [#n444d864]
本作の主人公。
数年の航海を経て、はるばる日本へやってきた金髪碧目の侍。

*登場場所 [#r34ce801]
*関連イベント・クエスト [#i96670b0]
*元ネタ:ウイリアム・アダムス [#j3f0ed7c]
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1564年9月24日 - 1620年5月16日
イングランド人の航海士。
**生まれと航海士までの道 [#ad2d20a8]
1564年イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれで、12歳で船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りするが造船技術よりも航海術に興味をもった
ウイリアムは、1588年に海軍に入り貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加した。
その後軍を離れてバーバリー商会ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海と多忙な日々を送っていた。
**日本漂着まで [#b240ae7b]
軍を離れてバーバリー商会ロンドン会社で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたウイリアムは、ロッテルダム港から極東(現在の日本)を目指す東洋探検を目的とした航海のために、ベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけたウイリアムは弟のトマスと共にロッテルダム港へ航海士として参加を志願しにゆく。
司令官のヤックス・マフはウイリアムをホープ号の航海士として採用し晴れて1598年6月24日に極東へ向け出発する。
航海にはホープ号を旗艦としその他にリフーデ号・ヘローフ号・トラウ号・フライデ・ボートスハップ号の5隻の船団で行われた。
しかし航海は困難を極め、トラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕されてしまい、
1隻はぐれてしまったローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。難を逃れたホープ号とリフーデ号は2隻での極東への航海の続行を決意するも
ついにウイリアムの乗るホープ号が沈没してしまう。難を逃れたリフーデ号に乗り換え航海を続けるも、途中補給に立ち寄った港で赤痢や壊血病が蔓延したり
インディオ(アメリカの先住民族総称の一つ)の襲撃を受けたりと散々な目に合う。またこの時にウイリアムと共に航海に参加していた弟のトマスも命を落としてしまう。
そうして漂流状態で極東へとたどり着く。
**日本漂着後 [#gbd276b8]
リフーデ号は(豊後臼杵の黒島、現在の大分県の辺りとされているが細かな位置は分からない。)に
辛くもウイリアム達が日本へたどり着いた(実質的には漂着)したのは1600年4月29日(慶長5年3月16日)関ヶ原の戦いの約半年前にあたる。
この時リフーデ号の船員はわずか20名ほどだったとされている。
この時臼杵城主・太田一吉の出した小舟でリフーデ号の船員は日本へ上陸することができた。
しかしリフーデ号はそもそも東洋探検を目的としていて商売などの目的をもって現れたわけでは無かったので、
不振船として船に積まれていた武器は没収されウイリアム達も拘束されてしまう。
その後徳川家康の指示により重体で身動きの取れない船長に変わりウイリアムを含めた3名を大坂に護送させた。
そののち5月12日(慶長5年3月30日)に初めて徳川家康はウイリアムらを引見する。
ウイリアムらを海賊だと思い込んでいた徳川家康だがウイリアムらのと話をし、かれらの目的や諸外国の情勢などを
聞くとウイリアムを気に入り、しばらくは船員を投獄したものの幾度かの引見ののち彼らを釈放した。
**自由になったウイリアム [#fc11744f]
釈放されある程度自由になったウイリアムだが帰国することを願い出たが許されず、代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、
助言を求めたりした。またこの時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われている。
1602年(慶長7年)頃に日本橋大伝馬町の名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘・お雪(マリア)と結婚した。
やがてウイリアムわが乗ってきたリフーデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。
しかし長年造船をしていなかったウイリアムはこれを固辞したが、結局着手することとなり伊東(静岡県)に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を完成させる。
これを聞いた徳川家康はさらに大きな船の建造を指示し、後に120tの船舶を完成させる。
この功績を賞した徳川家康はウイリアムを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見(現在の神奈川県)に采地を与え三浦按針(みうらあんじん)の名乗りを与えられ
外国人でありながら日本の武士としての身分を得た。その後もウイリアムは徳川家康に仕えた。





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